記録

その時々の考え方などを記録します。概ね現状の列挙です。

人生概観(2)

元々母は病弱だった。このことは、それ自体が不幸なことであるということではなくて、このことから派生する様々な事情が事態を混迷させたという点において、非常に重要である。

第一に、この事情が僕の母と父に対する評価を大きく歪ませた。母が病気で伏せっているとき、いつも僕は父から、母親は病気で大変なんだ、苦しんでいるんだ、と説明を受けた。そうして父は母と一緒に遊んだり出かけたりすることを望む僕を説得しようと試みていたのであるが、その試みはどちらかといえば、僕の中に母親を哀れみ、擁護しようとする気持ちを育む向きにこそ強く働いた。そうして悲劇のヒロインとしての母親像が出来上がっていった。だが、それもまた父親がそうしようとしてそう導いたものなのではないかと僕は思う。おそらく父親の中に母を悲劇のヒロインとして哀れむ心情があって、また、それが父から母への愛の一翼を担っていたのだろう。その哀れみが優しさであり、その哀れみを一人の他者である僕に示して見せることが優しさの証明であると感じていたのではないか、そう考えている。そして、また、その哀れみは確かにある種の優しさであって、その優しさは母と父との間に不自然な上下関係を生み出していた。父はいつも母に責め立てられていた。少なくとも僕の目にはそのように見えた。母の言うことが常に正しいとされ、父はその正しさに抑圧されているようであった。父はその優しさと寛容さゆえにその圧政に反旗を翻そうとはしていないようだった。どちらかといえば、その抑圧に耐えるために例の哀れみと寛容とを身につけたのではないかとも予想できる。哀れみは他者を理解することの一種の表れであり、他者を理解することは許しや寛容に結びつくものであると僕は思う。そして、その寛容とは一種の諦観であって、心に冷たさを帯びた静けさをもたらすものであるように感じる。確かに父親はこの哀れみによって自身と家庭の安定を守ることに成功していたのではないかと予想されるが、だが、その優しさを母に付け入られ状況は改善されぬまま澱み続けていた。そして、その澱みは幼い僕には「父は弱く誤っている。母は強く正しい。」というほぼ現実とは正反対に近い幻想を現実として認識させるに至っていた。

人生概観(1)

書くことがないので自分の人生について振り返ります。書き始めたはいいものの途中までで筆が止まってやる気と書く時間がなくなったのでとりあえず書けているところだけをあげます。この文章をそのまま更新するか「人生概観(n)」シリーズとして更新していくと思うので、そういうことで。

以下本文です。


僕の中で最も苦難らしいものとして扱われているのは両親の離婚である。両親は僕が小学二年生の時に離婚した。原因は分からなかった。そもそもあの当時の僕はその原因を知ろうとすらできていなかったように思う。小学二年生の僕に離婚という概念は理解が難しかった。それゆえその原因などというものについて考えが及ぶこともなかったはずだ。しかし正直その当時の記憶があまりはっきりとしていない。だからもしかしたら、両親に別々に暮らすことを告げられた時、「どうして?」くらいのことは言ったかもしれない。しかしそれは両親の離婚の原因、つまりはその決定の理由を問うたのではなく、突然訪れた理不尽について、「自分はそれを理解できない」と表明したにすぎなかっただろうと思う。

そのあたりがどうだったにせよ、そういうわけで僕と母親との二人での暮らしが始まった。なぜ、父ではなく母に引き取られたかというと、それは単純に僕が母親っ子だったから。たぶんそれだけだったとのだと思う。僕は父のことを嫌っていた。それは父親が悪い人間だったからというわけではなく、僕が母親のことを好きだったからだ。母のことが好きならば、その対極の存在である父のことは嫌い。そういう理屈が幼い僕の中ではまかり通っていた。もちろん無意識や本能のレイヤーにおいて。